(御神輿製作に携わった古屋さんが残してくださった資料の内容を沢山の皆さんに知っていただきたく、ご本人の承諾をいただき転載致します。原版は自治会館に保管されています。)
はじめに
御神輿を製作してから30数年が経ち、当時の子供たちも立派に大人の仲間入りして今ではその子たちが担ぎ手の中心となり御神輿は引き継がれています。
御神輿を製作した18名の人達の多くが天国に旅立っていき、残りの数名になってしまいました。
そこで、御神輿のできた経緯と製作の経過を記録に残して末永く御神輿を受け継いでもらいたく、私の記憶に残っている事柄を記述しました。もっと早く、皆が元気な時に記録に残しておけば良かったなぁとの思いです。
また、製作の様子、巡幸の様子を写真で記録しておけばと悔やまれますが、当時、関係者は、製作と巡幸の事で精一杯で記録に残しておこうとまで気が回らなかったのが実情でした。何枚か手元にあった写真を掲載する事ができたことが救いです。
昭和52年、新田稲荷神社の祭礼の日、境内のお店を漁っている子供たちの多くは共和自治会の子供たちでした。それは、自治会に御神輿が無いからでした。
当時私が宮世話人として神社で祭礼の手伝いをしていた時、その子供たちを見て、同じ世話人であった共和南町の大森さん(自治会会長)から「共和さんは御神輿がないのかい?」と聞かれ、「昔はあったようですが、担ぎ手がいなくなって巡幸が途絶えていて御神輿が朽ちてしまったようで今はありません。」と答えたところ、「うち(南町)に御神輿の鳳凰が一体あるんだがいらないか?」「それはいい話ですので、自治会に持ち帰って相談してみます。」と会話を交わしたのが、共和の御神輿誕生のきっかけでした。
大森さんの話によると、この鳳凰は、神社の境内で御神輿の本体を共和の人(?)が解体しているのを見て、鳳凰は捨てるのは勿体ないからと言って、その人から貰い保管していたそうで、このような事情を経て鳳凰は共和に里帰り(?)してきたのかも知れません。
早速この話を自治会の役員会に諮った結果、子供たちの為に御神輿を造ろうと話がまとまり、翌53年に大森さんから鳳凰を貰いうけました。
ここから共和の御神輿造りは始まりました。御神輿製作に関する具体的な事項を、自治会三役、文化、体育の部長と子ども会役員で検討する事を一任し、そこでの検討の結果、製作費用は自治会、子ども会(一部負担)から支出する事を決めました。
御神輿製作は、責任者を青木仙次さん(青木工務店社長)、指導者を御神輿に詳しい細谷新平さんにお願いする事に決め、お二人とも快く引き受けてくださいました。併せて青木さんから作業場所として、青木さん宅の裏にあった工務店の仕事場を提供して貰いました。
当時、共和子ども会には200人以上が加入していて、男子の野球部は市主催の少年野球大会で優勝、地区大会で優勝するなど、女子のドッヂボール部も地区大会で優勝と、好成績を残していました。
細谷さんとの話で「共和に子供は何人いるのかね?」「約200人くらいいます」「御神輿一基でどのようにして担ぐのかね?」「交代で担がせますよ」「そんなことじゃ担げない子が出てしまうんじゃないか?全部の子が交代無しで担げるように三基造っちゃおうじゃないか」と、そんな会話から三基造る事になりました。
鳳凰付は高学年男子、中型は高学年女子、樽(翌年、現在のものに作り替えました)は低学年男女用にと決まりました。
丁度私も会社の夏休みに入ったばかりなので、お手伝いする事ができました。作業場で朝9時ごろから夕方5時ごろまで作業をしましたが、この年の夏は、何もしなくても汗が流れ出るほどの猛暑続きでした。そんな中、連日汗を拭いながら、作業は皆で手分けして手際良く進め、三基の完成を目指して頑張りました。
御神輿本体造り
本体と鳥居と欄干は青木さんが造り、鳥居と欄干の取付け穴は、皆で手分けして本体に線引きしてくれた箇所を青木さん愛用の道具を借りて削りすぎないように気を使い、冷や汗をかきながら、どうにか三基全部の穴を開け終りました。
その後すぐ、青木さんに穴の開け具合を確認してもらい、既に組みあがっていた欄干を穴に組み込んでもらいました。流石、青木さんのプロの技。欄干は全部の穴に無事収まり、欄干の出来上がりです。一基はややガタツキが出たものの、鳥居の組み付けも無事終わりました。
次に、御神輿の顔となる屋根の形状です。ここは、青木さんと細谷(新)さんにお任せして、皆は見ているだけでした。
細谷さんが頭に描いた形状を再現すべく、青木さんが骨組みを曲線に削りながらベニヤを当てる。細谷さんから「これで良い」との返事を貰えるまで何度も繰り返し、屋根の形を出していき、「良いなぁ!」が出たところでベニヤ板を打ち付けて素晴らしい曲線の屋根の御神輿が出来上がりました。
仕上げ作業は鳳凰の取付けです。屋根の鳳凰の取付用台座に脚を針金で締め付けて完成です。本体は、青木さんと細谷さんの構想通りの御神輿に出来上がりました。
最初の大きな仕事を成し遂げた喜びで、皆で拍手して喜び合いました。
出来上がった御神輿の屋根と土台は、私が会社から貰ってきた車のフレームに塗る黒のラッカーを、本体はニスを、鳥居と欄干は赤のペンキを購入し、全員で手分けをして乾いては塗りを繰り返し、それぞれ3~4回重ね塗りをして塗装は完了。出来上がった三基の御神輿を公会堂に仮置きしました。
担ぎ棒・飾り網造り
担ぎ棒の材料は、河本(光)さんから保管してあったヒバの木と竹を貰い受けて造りました。この素材を、青木さん愛用のカンナを借りてヒバの木の自然の形に削っていったので、真っ直ぐではなく、御神輿の台の角穴に合わせながら何回も当たる個所を削り過ぎないよう少しずづ削って差し込み、当たる個所を削っては差し込みを繰り返して貫通させましたので、担ぎ棒の入れ口と出し口を間違えると入り難いといった出来上がりになってしまいました。横棒の竹は、節目を全部削り落として完成です。(今は角材になっています。)
紅白飾り網造りは、公会堂(現自治会館)前の広場で行いました。まず、網は井戸網を用いることになり、井戸網の作り方を細谷(幾)さんと、丁度広場に居合わせた長老の方から教わりながら縒り上げました。
脚立を2台置き、その上段に丸棒を渡し、その丸棒に3本の細い縄を掛け、橋を細い紐で結んでおく。3人が向かい合い、縄を隣の人に手渡しし3本の縄を縒り上げ、隣の人に手渡しを繰り返しながら縒り上げて1本の網の素材の出来上がりです。
縒り上がった1本1本の網に紅・白の晒を巻き付けて、前の縒り上げ作業を繰り返して1本の太い紅白飾り網は出来上がりです。この紅白飾り網は今も御神輿と山車に使われています。
飾り作り
御神輿本体が手作りなので、お飾りもできるだけ手作りにしようと決まりました。
まず、本体の屋根と土台に取り付ける巴の形の飾り作りです。巴の形は、新聞広告の小さな(1.5cmくらい)巴算盤のマークを何回も拡大しながら御神輿に付ける大きさにして、巴マークの型紙を作りました。(当時はパソコンはなく、私が会社のコピーで拡大しました。)
この型紙で銅板に巴形を罫書き、銅板を金切りハサミで慣れない手で切ります。16枚の化粧板を切り抜き、歪みを平らに直して二基の屋根の巴形の台座と、三基の本体に化粧釘で打ち付けて飾り付けは完了です。
欄干の擬宝珠、飾りの鈴大、小は、八王子に専門店があると聞き、二人で(誰が買いに行ってくれたのかは思い出せません。)探しに行き買い求めてきました。
その擬宝珠を欄干に傷をつけないように叩き込んで御神輿の本体は完成です。
鈴飾りの材料は、私が会社からカラートタンの端材を貰ってきたものを、会社の休みの日に自宅で、同じく会社から借りてきた打抜型で25m/mの円型約500枚をハンマーで打抜き、周囲に出たバリを一枚一枚ヤスリですり落とし、2m/mの穴を2か所ずつ開け、3~8枚を胴の針金で繋ぎ合わせ、それをハンダで留め、金色スプレーで2回塗装し下部に鈴を取付け、その鈴飾りを鳳凰の口と羽、本体四面のひさしに取り付けて御神輿は出来上がりました。
出来上がった御神輿を見て、屋根の部分がちょっと寂しいとの声があり、屋根とひさしに飾りを付ける事になりました。(型紙づくりと銅板を切る作業は、公会堂で何人かで作っていたことは知っていますが、詳しい内容はわかりません。)
出来上がった銅板飾りは、当時流行っていたインベーダーゲームに因んで『インベーダー』と名付けました。
銅板飾り12枚は、屋根に化粧釘で打ち付け、曲りを直して出来上がり。ひさし用は、2枚を針金で繋ぎ合わせ、それをハンダで留めて各ひさしに取り付けて出来上がりです。この銅板飾りで御神輿は完成しました。
山車造り
お祭りに御神輿だけでは寂しいからと、多くの人が御神輿造りに関わっている間に、荒井さん、青木さん他数名(名前は定かではありません)で山車造りを始めていました。
軽自動車のボディを取り除いた車台を調達してきて、それに屋台の四隅の柱と屋根は、青木さんと一緒に製作し、屋根の曲線には御神輿の屋根と同じようにとても苦労したようです。屋根に葦簀を取付けて本体は完成です。山車の舵棒を溶接で取付け、ペンキを塗って飾りも取り付けて山車が完成しました。山車は、太鼓を乗せて叩き手の子供を何人も乗せられる大きさです。
引き網は、御神輿より太めで長く、紅白の井戸網つくりで2本作り上げました。今度は御神輿の網作りでの経験が生かされ、太く長くても手際よく、意外と速く作れました。
御神輿の台、お賽銭箱は青木さんが作りました。(字は誰が書いたのかわかりません。)
大きな団扇は4~5人で公会堂で作ったと聞いていますが、団扇の本体、渋紙、字を誰が?残念ながら詳しい事は分かりません。
本体、担ぎ棒、飾り網造りの完成後、御神輿の台、お賽銭箱などのペンキ塗りは私が会社の休みの日に作業をし、山車の屋根に飾る花飾り造りや備品の製作を子ども会のお母さんをはじめ、多くの女性の人たちの応援を得て進めることができました。
御神輿造りに関わった多くの人たちの汗の結晶で出来上がった御神輿三基と山車は、祭礼の日の出番を待つだけです。
あとがき
この年のお祭りに間に合わせるため、連日猛暑の中汗びっしょりになりながら有志の人たちが約1ヶ月、作業場と公会堂(現自治会館前のお祭り広場)に通い詰め、奉仕の気持ち(今流で言うボランティア精神)で三基の御神輿と一台の山車を完成させた喜びは、言葉では言い尽くせないもので一杯です。
御神輿造りを始めた当初、私は長老の人たちにあまり知られていなく、翌日からの集合時間を聞いたら『朝7時だ』と言われ、翌日現場に朝7時に行ったが、誰も来ていなかったのです。そのまま現場で、時間を聞き間違えたのか?と考えながら待っていたら、9時ごろになって皆が集まりだしました。私は長老の一人に『時間が変わったのですか?』と確認したところ、『お前という人間をわからなかったので、口先だけで来ないだろうと試してみたんだ』と言われました。私の御神輿造りの気持ちを解って貰え、この時から私は長老の人に認められ、御神輿造りの一人に加えて貰えました。
何回か、1日の作業の終わり時間(5時ごろ)に細谷(新)さんが、自宅で数時間をかけて煮てきた豚のもつ煮を酒の肴に皆で一杯飲みながら、長老の人たちから以前あった共和の御神輿の話や、共和の昔話を聞かせてもらいました。
おかげで、私の知らない共和の話や自治会の出来事を聞くことができたのと、多くの人たちとの出逢いがあり、これらは御神輿造りの楽しい想い出になっています。
完成後、公会堂で製作に携わった人たちが集まり、完成を祝い、皆が良く頑張ったとその労をねぎらいました。
祭礼の日の午前中、新田稲荷神社での初めてのお祓いを受ける、飾り付けをした三基の御神輿とそれに携わった人々が勢揃いした景観は、他の自治会を圧倒していました。
神社でのお祓いを済ませ、公会堂前の広場に戻り、早速最終飾り付けをして、幼稚園以下の小さい子供たちの引く山車を先頭に三基の御神輿が町内を巡幸しました。
巡幸のコースは事前に調べて決めました。子供神輿の休憩所は、多くの子供たちが休める場所として、鉄塔の下、子供の広場(今は住宅になっています。)を中心に数か所設けました。
子供達の元気な掛け声が町内に響き渡り、生き生きとした笑顔が印象的でした。御神輿と山車を皆で造り上げた苦労が報われた瞬間でした。
翌54年に樽神輿を改造して屋根付の御神輿にしましたが、数年後、年々子供が少なくなり、三基の御神輿を出すのがきつくなり、中型の御神輿を他の自治会に寄贈してしまいました。この御神輿もきっと子供たちに担がれて町内を巡幸していることと思います。
自治会では、祭礼を盛り上げようとお祭りの半纏の販売をし祭礼の日を待ちましたが、初めての年だったので半纏が間に合わない人が多く出てしまったのが少し残念でした。
この年、午後は空いているので子供の頃を思い出し大人も担ごうと話がまとまり、大人神輿の巡幸は、男女の有志と子ども会のお母さんたちで担げない人も出るほど人数が集まりました。同行者が交代で担ぎ、担ぎ手と巡幸同行者の掛声で盛り上がり、熱気に包まれました。
大人神輿の巡幸コースは子供神輿とは違い、御神輿を多くの自治会会員の皆さんに披露目するのと、製作に携わった人たちの家族の方への感謝の気持ちを表す為に、御神輿の入れる道は入っていき、特に製作に携わった人の家の前では、その人に担ぎ棒の上に乗ってもらい、その労をねぎらい、その家の前を練り回り気勢を上げました。
その後、町内を巡幸中、先導役の細谷(新)さんが細谷清隆さん宅の門を通り過ぎてどんどん行ってしまったのを無視して、私たちは御神輿を引き返し、細谷さん宅に入り込みました。このお宅は、細谷(新)さんの親戚で縁のお宅だったのです。
丁度その時間はお客様に振舞う料理を準備していた様子で、「おめでたいことだからどうぞ」という、おばあちゃんの優しいお言葉に甘えご馳走になったのが始まりで(私たちは、細谷(新)さんに大目玉をくらいました。)、その後毎年、町内の十数軒のお宅にお邪魔して沢山の料理と飲物をいただき、ご馳走になりました。
平成11年の巡幸からは、お邪魔するお宅に負担を掛けすぎるため中止としました。
昭和54年からは、午前は子供神輿と山車の巡幸、午後は大人神輿の巡幸とし、今日まで続いています。
何年か後の祭礼の日、巡幸を始めようとした時、山車の舵棒の溶接が剥がれてしまい巡幸が危ぶまれましたが、細谷(勇)さんのご厚意により工場から電気溶接機を貸していただける事になり、どうにか山車を工場まで押していき、私が山車の下にもぐり火の粉を浴びながら電気溶接機で補修溶接をして巡幸を無事に済ませたことは、懐かしい想い出となっています。
「あとがき」も数年かけ、祭礼の都度記憶をたどって記事にしましたので記憶違いがあるかもしれませんが、何とかまとめあげることができました。
平成22年7月吉日 古屋 幹雄(記)